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 大久保八太議員を知る人は、彼を親しみを込めて「はっちゃん」と呼ぶ。これまで9期36年、市民とともに歩いてきた。相手が大企業であっても一歩も引かず、市民の願いをつらぬいてきた彼。はっちゃんに熱い期待が寄せられている。

わんぱくいっぱいの少年時代
 大久保八太は挾間町で五人兄弟の末っ子として生まれた。みんなから可愛がられ、愛情をいっぱい受けて育つ。
 小学校4年の時、授業の始まったのも気がつかずに野球に熱中し、先生から「お前が代表で教室に立っておけ」と一日中立たされた。おじさんから買ってもらったばかりのグローブを取り上げられ、さすがのワンパク大将も1週間苦しんだ。

 隣の席の子供が毎日梅干し弁当なのを見かねて、自分のおかずや、友達のおかずも貰って分け与えた。また、重い米の袋を担いだお年寄りを見かねて、自転車で届けてやったことも。
 大久保八太のやさしさと正義感はこの頃からはぐくまれていったようだ。

 小中学校からスポーツが大好きで柔道は初段、野球はピッチャーで4番と大活躍。卓球の郡大会個人戦で2回優勝した。進学した大分舞鶴高校には卓球部がなかったため、卓球部設立を求める署名を持って2年生と一緒に校長に直談判。「進学を何と心得ているか!」とこっぴどく叱られたが、今でも忘れないよき思い出になっている。

(写真は狭間中学1年の頃)
死んだつもりなら何でもできる
 大久保八太は高校卒業後、当時の国鉄に就職。踏み切り番などを経て貨物列車の車掌に。27才の頃彼の乗った列車28両のうち、後ろの20両が大分・宮崎県境の橋で脱線するという大事故が起こった。

 最後尾にいた彼は列車もろとも川に転落。あっという間の出来事であった。運良く助かった彼は列車から脱出し、通りすがりのトラックを止め延岡に。とにかく事故を報告しなくてはという一心だった。

 報告が済むとさすがに全身を痛さが襲った。そのまま病院で診察を受け、全身打撲で1ヶ月の入院となった。無我夢中の時は痛さも忘れていたが、何日もうなされるような痛みに悩まされた。

 あのとき死んでいても不思議ではなかった。こうして生きている方が不思議なくらいである。人間の生と死は、本当に紙一重であることを実感し、少し人生観が変わった。それ以来、「一度死んだ命。死んだつもりなら何でもできる」と思うようになった。

(写真は国鉄大分駅に入社した頃)
日本共産党との出会いが人生をかえた
 入社当時の国鉄は、日米安保条約反対闘争たけなわの頃。働くものの生活と権利を守るたたかいの中で大久保八太は日本共産党と出会う。そして22歳の誕生日に入党。

 大分市東大分に居を構え、ふとしたきっかけで34歳の時市議選に立候補し初当選。依頼9期連続当選を果たすことになる。

 新日鉄前での木曜朝の街頭演説も25年目になる。議会報告、くらしのことなどをマイクで訴え続ける。

 ばいじん問題では住民とともに市や国にも働きかけ、数々の対策を促進させてきた。
 20年取り組んできた大分川ダム問題は、ついに見直しを勝ち取った。
 住民運動をたえず重視し、住民の目線で住民とともに進んでいくことが、今も変わらない大久保八太の信条である。


(写真は3期目の応援に来た橋本敦参議と)
【略歴】
・1939年 由布市狭間町で生まれる
・1957年 大分県立舞鶴高校卒業。国鉄に入社
・1963年 国労大分地方本部青年部書記長および大分車掌区分会書記長など歴任
・1973年 大分市議選に初当選

現在は市議10期目。党市議団長。県常任委員。
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